【塾生とのやりとり】Nさんとトシ先生 その2
〇トシ先生
続き~価値観とはお互いが理解し合えるものであり、物欲とか感情になると共存共栄はできなくなる。
●Nさん
なるほど~!☺️💡です。ですから、価値観同士の共有部分が広がる要素があるわけでございますね。
〇トシ先生
そう言うことであり、そんな意識が大切で価値観が必要なのだが。
●さん
先生、「価値観」とは、自分で意識して、「このことや、物についてはこういう考え方です!私は!」… というように考えが固まる人もいれば、その々の自分の「感覚や感情」でどちらにも転ぶという、大きく分けるとすると二通りになるようにも思いますが、この違いは、生まれて教育を受けた自分の環境によるものもあれば、後天的に何方かの影響を受けまして、色々なことや、物に対しての考え方が深くなるということもありそうですが、一番 根本的に、「共存共栄」や「原理原理・摂理」をごく自然に当たり前のように守り、
自分の中で身に付いて 生きて来られた方々は、いわゆる、人知れぬ『苦労』というのを実体体験して味わっていないとそういった自己の確立と共に、価値観自体が固まらないと思ってしまうのですが、そうだとしましたら、『苦労』を求めるとして、何を一番意識するとよいのでしょうか?考え方が間違っていましたら、すみませんです。『苦労』とは、何に置き換えられるものでしょか?
苦労は、はたから見ましたら、「そりゃ、あなた!すごいわね!」… と思うことでも、小さい頃の教育からして、「苦労の先に幸せがある」といったような絶対的な原則があるとしまして、それを代々教えられ、しかも実体験されました方々と、今からそれを!と追いかけている方々がいるとしましたら、実際にはその苦しむ環境や待遇を自ら作り出すことはなかなか出来ないのかとも思いますが、 これから追随するに、「そのような苦労できる環境」を作り出せると、同等になる『置き換え』が、何かで出来ますでしょうか?
〇トシ先生
後天的環境とか教育とかはありますが、基本感情や欲によることが意味ないことを気がつくかどうかです!自分の天職ではありませんが、使命感にも似たものですから、安易に備わるものではありません。また苦労とか言いますが、それなりに成功した者には苦労などありません。苦労とはなにかと考えること自体あまり意味をなさない。苦労と思うのは、自分の不遇さに感傷的になっており、そもそも全ての出来事が自分の身に起きており、それを乗り越えるのが自分だと理解出来れば苦労とはならない訳です。苦労とか思うのは、他人によりまた周りの環境により自分が不遇になって苦労と呼ぶのだと考えます。苦しかった時代はありました。ある意味苦労だと感じた時代もありました。例えば人種差別に合っていた時は自分に起きている事態が自分で招いたものではありませんでしたからね
●Nさん
先生、ありがとうございます!受け身になりましたらそれがどんなに小さな出来事でも不運ですとか、苦労をかぶったとか、受け止め方も良い方向にはなりませんですね? 全てをマイナス方向に捉えてしまう自分が、利己な自分だともいえるのでしょうか。 むしろ苦労などと捉えてしまうことなどは利己で生きていることにもなりますですね。そのような感情に繋がるようなことはなく、目の前に訪れたこと一つ一つを乗り越えることで体感できたことが幸せであり、そういったプラスの方向に受け止められることが多ければ多いほど、その生きた経験値を人に活かせるケースが増えて、ひいては、自分の幸せを倍増できそうな気がいたします。