「ソクラテス」vs猛将「ラケス」&知将「ニキアス」の議論
『勇気とは。』
1 敵を前にして逃げないのが「勇気」!
理由:敵を前にして、これに背を向けるのは、敵に怖気づいて逃げ出すという勇気のない臆病な行為なので、その反対である、敵を前にして逃げずに戦い続ける行為こそが勇気ある行為。
ホントにそう?
例1:「遊牧民族であるスキタイ人の騎馬戦術」・・・騎兵の機動力を生かして、素早い前進と後退を繰り返す陽動作戦
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これって、「勇気」ある後退では?
例2:「スパルタ軍の重装歩兵軍の戦略的撤退」・・・主力である重装歩兵部隊を一時的に前線から撤退させたうえで、全軍で追撃するペルシア軍を迎え撃つために、途中で反転攻勢へと打って出る戦略
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これって、「勇気」ある撤退では?
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敵を前にして逃げない「勇気」と、「勇気」ある戦略的撤退
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どちらが「勇気」(?)それとも…どちらも「勇気」ある行動?
じゃあ・・・
2勇気とは、魂が持つ一種の忍耐強さである!
理由:敵を前にして逃げない勇気と、先の勝利を見据えた戦略の一環としての戦略的撤退といった判断も勇気といえる。
言い換えると・・・
●敵を前にして、戦いの恐怖に駆られて逃げたくなるのを我慢して、その場にとどまって戦い続けることは勇気ある行動。
それと同様に、
●すぐに戦いを挑まずに、いったん退くことも、それが敵軍と今すぐにでも戦って早く決着をつけたいとはやる気持ちを我慢して反撃の機会を待ち続けるための撤退であるならば、そうした判断もまた勇気である。
ホントにそう?
「勇気」は善美なるもの。➡すなわち➡「思慮あるもの」
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「勇気」が悪ではなく善なるものである以上、「勇気」は、乱暴で無思慮な行為ではなく、配慮のある思慮深い行為によってもたらされるもの。
ということは・・・
「勇気」が”魂が持つ一種の忍耐強さ”であるとするならば、
それは、「思慮ある忍耐強さ」でなければならない。
例1:飲み会で飲めないお酒を我慢して一気飲みする。
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これって、ただの痩せ我慢では?
例2(:)周りから白い目で見られるのを我慢してバカ騒ぎをする。
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これって無鉄砲な迷惑行為では?
無思慮な忍耐強さを勇気とは呼べないとするならば、
それでは、
このまま戦っていれば全滅してしまうといった、明らかに劣勢な状況にあっても、味方や家族の命に危険が及ぶことを顧みずに。意地でも逃げずに戦い続けるといった行為は?
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「無思慮に危険を冒す行為」
ということは
「敵を前にして逃げない」のも
「魂が持つ一種の忍耐強さ」も
思慮ある忍耐強さでなくてはならない。
では、勇気における思慮とは?
すなわち
勇気の「知のありかた」とは?
3勇気とは、「恐れるべきもの」と「恐れるべきでないもの」を見分ける知である。
例1:戦略的に不利な状況で、到底勝てない敵の大軍を前にして、ひたすら無策な突撃を繰り返していたずらに兵の命を失うのは、無謀な愚行。
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「恐れるべきもの」
「恐れるべきでないもの」と「恐れるべきもの」の見極め
それは
「未来の善」と「未来の悪」とを見分ける知
でもある。
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「恐れるべきもの」➡「未来の悪」
「恐れるべきでないもの」➡「未来の善」
例1:そのまま戦い続けると、確実に全滅してしまうような状況であるとするならば、それは部隊の全滅という「悪しき未来」が訪れることになるので、そのまま戦い続けることは⇨⇨⇨恐れるべきこと
例2:そのまま戦えば、大きな犠牲なしに勝利が得られるとするならば、それは、輝かしい勝利という「善き未来」が訪れることになるので、そのまま戦い続けることは⇨⇨⇨恐れるべきでないこと
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悪しき未来と善き未来を予見し、両者を適切に見分ける知のあり方
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「勇気」という知の本質
そして
善悪についての「知」は、
それが未来であれ、現在であれ、過去であれ、
悪しきものは同様に悪く、善きものは同様に善いことになる!
つまり、
自分の部隊が全滅してしまうという状況は、
それが未来であれ、現在であれ、過去であれ、同様に悪い状態であり、
仲間の犠牲なしに輝かしい勝利がもたらされるとするならば、
それは未来であれ、現在であれ、過去であれ、同様に善い状態である。
そして、
善悪の知には、現在・過去・未来といった時間的制約は一切関係なく、善いものはいかなる時においても善く、悪しきものはいかなる時においても悪い。
ゆえに、
「勇気の知」についても、悪しき未来と善き未来とを見分ける「善悪の知」であるとするならば、それは、未来だけではなく、過去や現在においても同様に適用できる「知」である。
まとめ
「恐れるべきものと恐れるべきでないものを見分ける知」
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「未来の善と未来の悪とを見分ける知」
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「善と悪を見分ける知」
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『勇気の定義』
⇩⇩⇩そしてそれは、
”人間が善く生きるための徳全体のあり方”そのものの定義でもある。