真善美の文字の成り立ちについて
塾生 Wさんの投稿
Iさん真善美の文字の成り立ちについてありがとうございました。
「眞」は死者
「眞」という字は「匕(か)」という字と「県」という字を組み合わせたものとする説です。
「匕」とは人を逆さにした形で「県」は首を逆さまに懸けた形とし、
この2文字が合わさった「眞」を死者としました。
ではなぜ、死者が「まこと」なのかと言えば、
「肉をもってこの世に生きる姿は仮初めのもの…、
死んであの世へ行ってこそ永遠のまことの姿」といった考えによるものだそうです。
「善」は生け贄
「ひつじの首」の象形と「2つの取っ手のある刃物の象形と口の象形」
(「原告と被告の発言」の意味)から、羊を神のいけにえとして、
両者がよい結論を求める事を意味し、そこから、「よい」を意味する「善」という漢字が成り立ちました。
『美」は神事の際の献物
中国最古の字書「説文解字」によると、
「羊」+「大」の二文字で構成される「会意文字」だといわれています。
羊は古来より神事の際、献物として供えられていた動物です。
大きな羊は献物としての価値が高く、大きいものは「善」いものとされていました。
さらに神に供えられる羊は美しく完全であることを求められたことから、
「大」+「羊」=「美」の漢字が生まれ、
「美しい」という意味を持つようになったとのことです。
そして、のちにすべての「美しい」の意味に用いられるようになりました。
これを読んで思ったことは真善美とは「神との関係性」から来ているということです。
神といっても〇〇教の神とか特定できるものではなく
宇宙にある唯一のエネルギーやそれを司る原理や法則と私は捉えました。
この世にある物は生物でも無生物でもひとつのエネルギーで出来ていて
そのエネルギーを「神」「生命(いのち)」と呼び、
本来はひとつのエネルギー(生命)しかなく個別の生命というのは幻想であり
人間も本来は「ひとつの生命」の表現の形でしかなく全ては本質的にひとつ(ワンネス)である。
本来ひとつのものである人間は自我(エゴ)により
自分と他の者という分離意識を作り我欲などにより周りとの不調和や争いを生み出し分離を深めていった。
例えると 生命は「海」であり人間一人一人はそこに現れた「波」である。
「波」は「海」の起こす現象に過ぎず 全ての「波」の本質は「海」である。
という スピリチュアル(ノンデュアリティ)的な考え方を思い出しました。
「肉をもってこの世に生きる姿は仮初めのもの…、
死んであの世へ行ってこそ永遠のまことの姿」と
いうこととも繋がってくるのかなと思いました。
また白隠禅師の坐禅和讃にある「衆生本来仏なり」というコトバとも
繋がっているのか思いました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/坐禅和讃
「真善美」とは人間の本質にある神(完全性)に近づく為の心の在り方であり
神との関係性とは自分自身の真我との関係性であり
自分を磨くことで神との良い関係を築けるのかなと思いました。