真善美と神善美について

—塾生 Oさんとトシ先生とのやりとり—
「真善美と神善美について」
真善美とは「真実の善行を行う美しさ」であるならば、
それを目指す為には何が邪魔をしているのだろうと考えてみました。
真善美は人間の本質であり、本来は難しいものではないはずだと思います。
本質に逆らわない生き方であれば、難しくはないはずなのに
中途半端な経験や知識で悩んでしまっているからうまくいかない。
行動に移せずに思考が停止している。
元々、持っているのに自分勝手に捻じ曲げていて、
その事にすら気づかずに日々を送り、同じ風景を繰り返している。
神様は人間を平等につくられていて、108の煩悩も平等に与えられている。
煩悩を捨てると人間は変われる。
煩悩にまみれている事に気づかないうちは捨てる事もままならない。
それは自分との闘いであって他人との比較でも競争でもない。
捨てるという行為は新たなるものを得るであり、
それが変われるとなる。煩悩に囚われているうちは目の前も先も見えない。
だから善悪の区別もつかず選択の権利の行使もできていないのではないでしょうか。
煩悩の中の三毒(欲の心、怒りの心、愚痴の心)を持ってはいけない。
けれどそれは生きている間ずっと付きまとう。
それをどう遠ざけるのか、どのような心の在り方でいるのか、
どのような環境に身を置くのかを考える。
まず、生きている間は三毒にまみれてしまう事を知る。
それを忘れてしまうから同じところから進まない。
「欲の心」が自分を良く見せたいという行動となり、
素直さを奪い、自分で壁をつくる。
「怒りの心」が自分を無駄に疲弊させ、注力すべきところを逃す。
「愚痴の心」があきらめを引き込み明日をつくる今日を無駄にする。
【Iさんがお調べ下さいました】
「真」
「眞」という字は「匕(か)」という字と「県」という字を組み合わせたものとする説です。
「匕」とは人を逆さにした形で「県」は首を逆さまに懸けた形とし、
この2文字が合わさった「眞」を死者としました。
ではなぜ、死者が「まこと」なのかと言えば、
「肉をもってこの世に生きる姿は仮初めのもの…、
死んであの世へ行ってこそ永遠のまことの姿」と
いった考えによるものだそうです。
人間の生まれる時と死ぬ時は神様が決めてくださる。
自分はその間をどう生きていくのか?
自分が仮である事、不完全である事の自覚が「まこと」を
追い続け進んでいくのかと思いました。
死ぬまで自分は三毒に引きずられてしまう不完全な存在である事を知り、
それを忘れずに在る事。
今迄、三毒にまみれて生きてきたからその世界を知らず、
失ったものの尊さを知らずに過ごしてきました。
だから、常に三毒を遠ざける、そして自分がやりたい事を
我慢して人の為に行動する事が必要だと考えました。
先生:良く出来ました。繋がりましたか?
Oさん:はい、繋がりました。自分の実態を見つめさせて頂きました。ありがとうございます。